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コンバーチブルのみだった初代とは変わり、今日のようにクーペがメインモデルとなったのはC2からのこと。今日でも伝統として続いているリトラクタブル・ヘッドライトもC2から採用したもの。C2最大の特筆点は、その奇抜なまでにユニークなデザインだろう。1963年デビュー当初ルーフのセンター部分からテールにかけて1本のリブが走っていた。これが今ではコレクターズ・アイテム、“スプリット・ウィンドウ”の名で知られる2分割式リアウィンドウだ。1963年モデルのみが採用し、今では希少価値が高い。

台数が“さばけない”スポーツカーという性質上、コルベットはGMからしてみれば販売台数も利益率も少ない部類に入るものだった。それでもコルベットはシボレーブランドにとって当時からイメージリーダーとして重要な役割を担っていたし、今日まで製造されてきた。また、これはコルベットというイメージリーダーを支える情熱的な開発メンバーがいたということでもある。

1956年にシボレーのゼネラル・マネージャーに就任したエド・コール。C1ではエンジンを担当したエンジニアだ。初代コルベットが発表された年にテストドライバー兼エンジニアとしてGMに入社したゾーラ・アーカス・ダントフ。C1のリファインを担当した人物。1957年にはコルベットのチーフエンジニアに就任した。1958年にGMデザイン部門トップの座に就任したウィリアム(通称ビル)・ミッチェル。コルベットSR2でその実力を認められ、スティングレイ・レーサーでデザイナーとしての地位を確固たるものにした人物。もちろん、自動車を開発するには多くの人が関与している。中でも注目されるのがこの3人で、面白いエピソードがあるのもこの人物たちについてだ。それぞれがC1に携わったことのある人物で、思い思いに“やり残し”の念を抱いていたことだろう。

満を持してC2が登場した、というのは決して謳い文句ではない。ビル・ミッチェルは決して、一人で何でもやってしまうデザイナーではなかった。どちらかというと、スタッフのアイディアをまとめる役割をもっていた。現にC2のコンセプトデザインには、彼の下で働いていた日系のラリー・シノダの習作「MAKO SHARK」がある。存続が危ぶまれたコルベットを継続させたのは、エド・コールの力があった。そして、スポーツカーとして速さを執拗に追い求めるゾーラ・ダントフの存在も欠かすことができなかった。チームワークの集大成といっても言い過ぎではないのだ。

C2に与えられたスティングレイ(STING RAY:アカエイ)の名称は、ビル・ミッチェルが名づけた。ビル・ミッチェルはもともと釣り好きで、なかでも深海魚が好きだったという。これに対し、ゾーラ・ダントフは「馬鹿な魚」と変えたがっていたというエピソードがある。しかし、軍配はビル・ミッチェルに上がった。C2デビュー当初のスプリット・ウィンドウでも、一悶着あった。それは「ドライバーのリアビューを妨げる」と主張したゾーラ・ダントフに対し、「カッコいいから」という理由でビル・ミッチェルが押し通したというもの。しかし、1964年からはスプリット・ウィンドウが廃止されたことから、軍配はゾーラ・ダントフに上がったことになる。そんな笑い話のような“いざこざ”も、C2の魅力を惹きたてる逸話だ。

1967年にGTのホモロゲーションを取得した、L88(純レース用427cu.エンジン搭載車)が「ル・マン24時間」レースに出場した。レースマシンは通常、キャリアカーに積まれてサーキットまで運ばれる。しかし、C2は飛行場からサーキットまで公道を走っていったというエピソードも残っているエポックメイキングなクルマなのだ。

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